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たなぼた(高円寺)

たなばたではありませんたなぼたです(2009/8/10の書き込み)高円寺と言えば阿波踊りいまや本家本元徳島の阿波踊りよりも集客数が多いそうですねこういう地域興しのイベントは各地でよく見られますが高円寺阿波踊りはさだめし大成功事例でしょういや阿波踊りの話しはまた日を改めるとしまして・・・高円寺がこうして「中央線の駅前」として栄えることができたのはある偶然・・・いやまさに「棚ぼた」のお陰なのですさもなければただの「中央線沿い」の街に過ぎなかったかもしれないのですさてどういうことなのでしょうか中央線はもともと民営の甲武鉄道1889(明治22)年に新宿~立川間で開業したときの駅は新宿~中野~境~国分寺~立川でした・・・意外ではないですか?吉祥寺もなければ三鷹もない荻窪もないにもかかわらず境(現在の武蔵境)駅があるという不思議その理由はいろいろあるようですが境駅は名勝「小金井桜」を見物する花見客を主な旅客として開業したという背景があるようです小金井桜は江戸中期に玉川上水の堤に植えられたもので小金井橋を中心に約6km上水の両岸に植えられた見事な桜並木江戸後期には江戸近郊有数の花見の名所として広く知られ大勢の花見客が集まりました甲武鉄道開通の明治22年4月11日はまさに小金井桜満開の頃ここに駅を作らない手はないと境駅が設置されたようですただ小金井桜の中心地へは武蔵境駅からでは少し距離がありますそこで1924(大正13)年に花見時期に限って小金井村に臨時停車場が開設されるようになり1926(大正15)年正式に「武蔵小金井駅」が開業しました(いま武蔵小金井駅の発車チャイムは『さくらさくら』)駅の固定化は例によって関東大震災後の住民増加が理由でしょうさて甲武鉄道としては中野~境間は長すぎるので中間に駅を新たに建設することになりましたしかしそこは商売駅を作る場所は集客が見込まれなければなりませんそりゃそうですねそこで江戸時代からの街道筋と鉄道が交差するところに駅を設置しようと考えましたそれならば人馬の往来も多くさまざまな意味で利点がありますからこれもまた道理そこでまず荻窪が候補に挙がりました荻窪は鉄道が青梅街道と交差する地点ですまた南側の高井戸村など甲州街道沿いの街との交通連絡も良い絶好の場所けれども荻窪駅開業には紆余曲折があったようではじめは駅周辺の地主が「先祖代々の土地を明け渡せるか」と抵抗してウンと言わず一時は甲武鉄道側も「もう面倒だから荻窪やめて阿佐ヶ谷村あたりに駅を作るか」という流れに候補地は現在の阿佐ヶ谷駅より西「文化女子大学付属杉並高校」のあるあたりだったそうですしかし今度は阿佐ヶ谷村が大反対蒸気機関車から火の粉が飛んで火事になるということから一大反対運動を展開しました実際のところ当時の質の悪い石炭で走りますと煙突からかなり火の粉が飛んで火事になる危険性は大きかったそうです・・・で話しはもとに戻り結局現在の場所で荻窪駅が開業しました1891(明治24)年のことですついで1899(明治32)年に吉祥寺駅開業吉祥寺は五日市街道と交差する地点として選ばれました本当は現在の吉祥寺よりももっと東五日市街道と交差する「本宿」あたりに開設したかったけれどもやはり地主の反対があって・・・というのは八重桜の回でお話し済みでしたねなお三鷹は昭和になってできた駅です元々は電車区(車庫)に付随する「信号場」でしたが1930(昭和5)年に「三鷹駅」になりましたはっきり言って周辺に何の特色もない場所で電車の車庫に近いというのが駅開設の理由しかしその唯一の理由が最大の効用となって現在吉祥寺にも停車しない特別快速が三鷹には停車するんですから面白い巡り合わせですねさて大正に入ると中央線はますます便利になっていきました1919(大正8)年に吉祥寺まで電化完了運転本数が増加し沿線は徐々に発展していきますまた多摩地域の住民たちも東京市内へ仕事や遊びで出かける機会も次第に増加してきました甲武鉄道開業当時は反対していた住民たちもそんなことを言っている場合ではなくなって来たのです「お茶の水」「水道橋」など市内中心部へ直行する電車をただ指をくわえて眺めるしかなかった杉並の住民達は以前とは100%価値観を切り替えて今度は「駅誘致運動」に乗り出しました電車になって火の粉が出なくなったことも理由でしょうね鉄道院(明治39年に甲武鉄道は国有化)としても中野~荻窪間は長いので途中駅を作ることにはやぶさかではありませんでしたそこでまず以前に打診のあった阿佐ヶ谷村が鉄道院に駅開設陳情書を提出これを聞いた隣村馬橋村の人たちも「こりゃ負けてられん」と同じく陳情ここに阿佐ヶ谷:馬橋間の熾烈な誘致合戦が開始されたのです鉄道院としては馬橋に駅を作りたかったようです現在石川遼クンでおなじみ「杉並学院高校」のあるあたりですねどうしてかというとここが中野~荻窪間2.5マイル(約4km)の中間地点であるからですきわめて明快な理由と言えるでしょう内々にその話しを聞いた馬橋村の人たちは大喜び「勝った勝った」と盛り上がり地主も協力して「駅」近くに新たな道路を開通させてしてしまいましたこの道は「馬橋中央通り」(現在の馬橋通り)で南は五日市街道~青梅街道杉並学院の東を通って線路を越え大場通り(現在の早稲田通り)に到るものまず周辺の交通網を整備していつでも駅を開設できるように下準備をしたのです鉄道院もこれに満足し「馬橋中央通り」と線路が交差する地点に駅を開設することが決定正式な申請書類の提出を馬橋村関係者に求めましたここまで来れば「馬橋駅」は決まったも同前もしもこのままなら「阿佐ヶ谷駅」も「高円寺駅」も存在していなかった可能性がありますもしもこのままなら・・・そうです馬橋村は詰めが甘かった村役場と大地主だけで話しを進めていたことに周辺小地主たちがヘソを曲げたのかどうか・・・ともかく駅用地として土地を収用される立場の人たちが猛反対をはじめました「鉄道なんぞ金持ちのものだおれたちは一生鉄道なんぞに乗る機会はありゃせん」ということだそうです誘致賛成派は熱心に反対派を説得に回りましたが一度曲がったヘソはそう簡単に治るものではありません結局時間切れとなり目前まで来ていた「馬橋駅」は幻となって消えてしまったのですやはり物事を進めるときには十分な「目配り気配り手配り」が欠かせません「恥を掻いても仁義は欠くな」ですよね~こうして新駅誘致交渉は新たな段階を迎えましたさて阿佐ヶ谷村馬橋村が暗礁に乗り上げたことを聞いて俄然張り切り始めますなにしろ元々荻窪駅開設の頃からの因縁ですからそりゃあ頑張りますよねきっと「あのとき断っておかなければ」という反省もあったんじゃないでしょうかねともかく鉄道院に何度も掛け合いましたが鉄道院はなかなかウンとは言ってくれませんそれは阿佐ヶ谷が荻窪に近すぎるためです新駅構想はあくまでも「中野~荻窪の中間地点に駅を作る」ことが目的だったのですからねそれに新しい道路まで造った馬橋と比べ阿佐ヶ谷駅予定地周辺は何の交通手段もない原野であったことも拒否の理由ですそこで阿佐ヶ谷村の有志は必殺技に転じました政治力の利用です阿佐ヶ谷駅予定地の南(現在の成田東四丁目)に住む古谷久綱という代議士に陳情古谷代議士は「付近の皆さんのためなら協力を約束して活動を開始しましたがなかなか難航しましたやはり鉄道院の「中野~荻窪の中間地点」方針が固かったからですそこで古谷代議士は一計を案じました「そんなに中間地点にこだわるなら阿佐ヶ谷~中野間にも駅を作ればいいじゃないか」さすが政治家ですので思いつくことが画期的これが功を奏したのか鉄道院は「中野~荻窪間には2駅新設する」ことになりました政治力おそるべし!そのあとも土地収容に関する地主たちのすったもんだは相変わらずでしたがとにもかくにも1922(大正11)年に阿佐ヶ谷駅は開業しましたここで一つ古谷代議士の活動を「票目当ての選挙区利益誘導」と考えるのは浅ましい現代人古谷代議士はなんと愛媛県選出の議員だったのですそして彼は駅開業を待たずに1919(大正8)年に亡くなっていますが遺族は駅誘致運動の人たちからの一切の金銭的報酬を拒否しています阿佐ヶ谷住民達は「いくらなんでも申し訳ない」と思い阿佐ヶ谷駅から古谷代議士の家までの細いあぜ道(鎌倉時代以来の「かまくらみち」)を人力車がスムーズに往来できるような「三間道路」に拡張しましたこれが現在阿佐ヶ谷駅南口のアーケード商店街「パールセンター」なっているのだそうですちなみに古谷久綱代議士の甥が「古谷綱正」さん毎日新聞記者出身の彼は眼鏡を掛けたインテリおじさんで私が子どもの頃TBSの「ニュースコープ」という番組でニュースキャスターをしていましたっけさて「棚からぼた餅」は高円寺です駅誘致など考えてもいなかったのですが阿佐ヶ谷から「中野~荻窪間2駅新設」に関する情報がもたらされ「それは願ってもないこと」と躍りあがらんばかりに活動を開始します当初の予定地は今よりも東寄りの環七との交差点あたりだったそうですでここでもまた地主達のあ~でもないこ~でもない「うちばかり損をするのはイヤだ」の繰り返しでなかなか話しがまとまりませんでしたそのとき予定地より西に土地を持つ地主(彼は馬橋駅誘致でも中心的人物でした)が「それでは私が土地を出しましょう」と申し出て現在の地点に駅が開設されることになりました先見の明があったとしか言えませんねこうして棚ぼたで急に開設が決まった高円寺駅なのですから駅の北口はまったくの未整備馬橋のようにわざわざ大きな道を新設したのとは大違いです現在でも高円寺駅前には南北貫通の道路(早稲田通りまで通じる自動車道)がなく北口はごちゃごちゃした商店街密集地(それこそが現在の高円寺の魅力)になっているのはそうした理由によるようですただし昔から開けていた青梅街道や五日市街道につながる南口側には広い道が新設されました現在の「新高円寺通り」がそれですいまこの「新高円寺通り」を中心会場として高円寺阿波踊りが開催されています南北貫通道路がないゆえに交通の遮断もしやすく人の波が北上すると駅北口の商店街の細い路地のあちこちで熱い踊りが繰り広げられる高円寺阿波踊りそのフェスティバル向けの道路事情は実は「棚からぼた餅」式にドサクサに作られた駅ゆえのことだったのです阿佐ヶ谷・高円寺と同時に新設された駅が西荻窪この3駅は「土日に快速が止まらない」ことでも共通していますね西荻駅開設については西荻の項でお話ししましょうか
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# by mubfismytt | 2010-07-27 01:20

楽しく過ごす

このごろ嫌な事件が多いよね


なんか人間が協力して生活することができなくなってるみたい


私はみんなでいたほうが楽しいんだけどね


みんなが昔みたいに楽しくできる方法ってないのかな?
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# by mubfismytt | 2010-07-03 01:47

みんなと一緒になろう


by mubfismytt
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